ひっそりと古道を歩けば往時のにぎわいがすぐそこに
延暦16(797)年、それまで阿波から直接土佐へ通じていた太政官道が、川之江村から新宮村(当時は古美村)を経由するように改められ、この道が土佐街道の前身となります。
しかしその後、中央官庁(京)からの国司の赴任などが形骸化し、官道ももっぱら一般の往来に使われるようになって、次第にルートが変わっていきました。改めて公道として開かれたのは、官道開通より実に900年の時を経た享保3(1718)年、土佐の6代藩主・山内豊隆の参勤交代の折のことです。古代官道よりもずっと川手に開かれたこの道は、現在の県道5号線に近いルートを通っています。
土佐侯の参勤交代路はもともと太平洋に乗り出して大坂に渡るコースをとっていましたが、あまりの難航や風待ちによる時間の浪費に、ついに陸路に改められたといわれています。一般に「土佐街道」と呼び習わしていますが、これはあくまで伊予側の呼び名で、土佐側では「北山越」と呼んでいたようです。
土佐立川より伊予新宮に入るには笹ヶ峰峠を越えます。
名前のとおり一面熊笹に覆われた笹ヶ峰峠は、標高1,027mの地点にあり、土佐領最後の休憩所でした。参勤交代が廃された明治時代以降には、旅人たちのためにわらじや餅などを売る茶店が出ていたといいます。
笹ヶ峰峠より新宮に入り400mほど下ったところに、杖立さんと呼ばれる石地蔵がひっそりと立っています。安政5(1858)年、馬立村(現・新宮村)の内田種治の寄進によるもので、往来の旅人たちは持っていた杖を傍らに突き立てて、道中の安全を祈って先を急いだといわれています。一説によると、この石地蔵は弘法大師・空海の像ではないかといわれています。
その後、水無峠、笠取峠を越え、急坂「腹包丁」にさしかかります。大名行列の武士たちは、あまりの急坂ゆえ腰の刀がつかえ、歩きにくいため、やむを得ず刀を腹に回し、その格好が腹に包丁を刺したようであることから付いた名前といわれています。天保7(1836)年、土佐藩士・国沢好察は『江戸御供日記』に「峯伝いして行かば腹包丁という坂あり。世にかしこくいいもてさわぐもことはりにて、さがしさいうばかりなし」と記しています。
これを過ぎ、ようやく集落におりついたところが「下付(おりつき)」。往時は笹ヶ峰からこの下付までは一丁ごとに茶店があって、ずいぶんとにぎわったようです。
この後馬立本陣を左に見ながら、しばらくは川沿いの平坦な道を通り、「新宮の渡し」を渡って再び山に入り、「不動堂」、「一升水」と過ぎていきます。一升水は、その昔弘法大師がのどの渇きをいやそうと、杖を突き立てたところ、一升もあろうかと思える清水が湧き出たという故事にちなんでつけられた地名です。このあたりも、うどんや草履、酒などを売る茶店があったそうです。
一升水からおよそ30分行くと、水ヶ峰です。小さなお堂には三体の石仏が安置されていて、中央が本尊の地蔵菩薩、向かって右が弘法大師、左が不動明王です。建立された年代や由緒は不明ですが、古来からの庶民の地蔵信仰がベースになっているものと思われます。今もここに湧き出る水は、往来の旅人ののどを潤したにちがいありません。
この後、横峰(現在の堀切トンネルの直上)を経て川之江市に入り、新宮の土佐街道の旅は終わります。笹ヶ峰から横峰までおよそ5時間ほどの行程です。
昭和12(1937)年に川之江大豊線(県道)が開通、同26(1951)年にそのルートが一部川沿いに改められ、さらに同39(1964)年になって笹ヶ峰トンネルが開通するなどして、土佐街道は次第に利用されることがなくなり、いまや古道としてわずかに山中にその名残をとどめるのみとなっています。新宮村を中心に高知県大豊町から愛媛県川之江市に至る27kmが、平成8(1996)年、国の「歴史の道百選」に選ばれました。
[霧の森からのアクセス]村内を縦貫(霧の森周辺にも遺構あり)